お前らの恋愛なんてインスタなかったら終わるんだろ。
恋愛をより楽しいものにするためにSNSを活用しているのか。
はたまた、SNSを充実させるために恋愛をするのか。
他のカップルの充実してそうな様子というものを、インターネット上で手軽に拝見できるようになった現代、
恋愛の形というのも時代とともに変化してきた。
当たり前のことだ。
だが、「恋愛の形が変わった」の一言で片付けていいのか??
と思わせるような痛い投稿もよく目にする。
なぜそんなにも恋人との様子を周りの人間に報告したがる?
その心理だけは全く理解ができない。
あ、勘違いしないでほしい。
僕は理解ができないと言っているだけで、「そういうカップルがくそだ!!」
なんて一言も言ってない。一言も言ってないぞ!!
「いつも通りの普通の投稿をしようと思ったんですけど、それがたまたま彼氏といる時だったんです〜」
くらいの感覚でたま〜に上がってる分にはなんとも思わない。
だが実際携帯を開いてみると、
見てるだけでIQ50くらい下がりそうな写真や文章ばかりじゃないか!!
どうしてくれるんだ俺の少ない知能指数を!!
「じゃあ見なければいいじゃないですか」
まぁ正論ですわなそれが。
だが、僕自身ネット依存な人間なのでどうしても目に入ってしまう。
そもそもなぜ自分らのラブリィーな様子を見せびらかすのだろうか。
「急に得た特権階級は人のモラルを低下させる」
という傾向が心理学的に見られるという研究結果が心理学から出ている。
例えば、今までそこまでお金を持っていなかった人がお金を手に入れて高級車なんかを手に入れると、急に割り込みや信号無視をする傾向が増えるということだ。
ではこの心理をSNS恋愛依存カップルに当てはめてみよう。
おそらく今まであまり恋愛に恵まれてこなかった人が急に大学で恋人ができたとする。
そして、今までは自分の周りの充実した恋愛というものを見てきていたとするなら、自分自身も急に得た特権階級を利用せずにはいられないだろう。
「今までずっと我慢してきたんだ。許してあげよう」
なんて慈悲の気持ちで彼らの投稿を眺めるとしただの失礼なやつになりそうな気がするが、実際そういうことになるのだろう。
モラルが低下するということだ。
恋愛は脳の勘違いという話は以前したが、
恋愛をコントロールしているはずが、恋愛にコントロールされているのだろうか。
まぁ理性をある程度捨てた方が楽しい恋愛になりそうだ。。。
だがしかし、
泊まりの旅行写真などをあげたりしてるのは、
「私たち、今晩SEXします!!!」
って不特定多数に報告しているようなものだ。
それって....どうなんすか。
人生はもっと簡単だ。
人生はもっと簡単だ。
だけど、東京のような都会で暮すのが当たり前になっているとそのことに気づけなくなってしまう。
「たくさん勉強しなさい」
「たくさん勉強したあとは、たくさん働きなさい」
というような暗黙の圧力に圧迫されながら生きる。
そして、勉強して働いて「成功」を追い求めなければいけない。
「出世」「成功」「年収」「マイホーム」「結婚」etc..
都会には生活を難しくする言葉がたくさんある。
都会の人々は、
たくさん勉強したあと、たくさん働き、たくさん稼いで何をするのだろうか?
奇妙なことに、30年以上マイホームのローンを払い続けるのだ。
悲しいことに、さらに自分の人生を難しいものにしてしまっている。
だがここで問題なのは、都会の人々は自分からどんどん人生を難しいものに変えてしまっていることに気づいていないことである。
そりゃそうだ。
周りを見渡しても自分と同じような人しかいないし、そう生きることが正しい人生だと無意識に思い込んでしまっている部分があるのだ。
「高い料理を食べても顔は変わらないよ」
僕は今でこそ地球の反対側の貧乏な小さな国に住んでいるが、
出身は東京であり、高い食べ物を食べに行くことも多々あった。
しかし、その時いつも思うのは
高いお金を払っても、その一瞬優越感に浸れること以外に何もない、
ということ。
もちろんお金を払って美味しいものを食べるのも楽しいし美味しいが、
お腹が空いている時に卵かけご飯を食べてもめちゃくちゃ美味しい。
高い食べ物を食べた帰り道、
ショーウィンドウに映った僕の姿はいつと全く同じ姿の僕だった。
いつ見ても同じ体型、同じブサイク顔。
何も変わりゃしないんだ。
あとからやってくるのは、
「なんて無駄なお金の使い方をしてしまったんだ...」
という罪悪感。
子供の頃はもっと人生が簡単だった。そうでしょ?
それが大人になるにつれてお金を使うことで人生を潤すようになり、
いつの間にかお金を使うことに頼るようになってしまった。
「いや大人と子供は違うでしょ」
そうかな。
世の中にはお金を使わなくてももっと幸せに暮らしている人々はたくさんいる。
お金を持っていなくてもたくさん家を思っている人もいる。
彼らは人生を簡単に生きる方法を知っているのだ。
人生はもっと簡単だ。
しかし、現代社会を生きる都会の若者は人生を簡単に生きる方法を知らない。
僕はそういう価値観を今の若者こそ学ぶ必要があるのではないかと思う。
コミュ力の高さを売りにしている奴は、自分に魅力がない奴
タイトルはちょっと極端だけど、まぁそういうことでしょ。
特に日本おいてだけど、「コミュニケーション能力」というものが注目されすぎている。
そもそもコミュ力ってなんだろう。
僕にはよくわからないのだけれど、誰とでもそれなりに気まずくない会話ができたり、空気を読んだ会話がそつなくこなせます、みたいな感じかな。
コミュニケーション能力が高い人は評価され、コミュニケーション能力が低い人は見下される。
そんな社会の風潮が僕はすごく嫌いだ。
自分自身に魅力がないのに、いくらたくさん友達や知り合いを増やしても意味がない。
豊かな人間関係というのは、お互いが素直に尊敬しあうことで成立する。
お互いを尊敬しなければいけないという意識がある時点で、その関係は終わっている。
内容のない人間と友達になってくれる人間など、足したことないだろうし、無理やり魅力的な人間を知り合いに追加したところで、単なる知り合い以上にはなれないし、長く深い付き合いはできないでしょう。
コミュニケーション能力を磨いたり、友人を増やそうとする時間やエナジーがあるなら、その時間を自分自身を充実されることに使うべきだ。
コミュニケーション能力を第一に考えてる人が勘違いしてると僕が思う点は、
コミュ力なんてなくても自分自身が魅力的になれば人は集まってくる、ということである。
コミュ力なんて必要ない
僕はコミュ力なんていらないと思っている。
社会がコミュ力重視な傾向があるからって、
「自分はコミュ力がない...」
と落ち込む必要は全くない。
一番大事なのは、伝えたいことがあるかどうか。
いくらその場しのぎの会話がうまかったとしても、伝えたいことがなければ薄っぺらい会話になってしまう。
逆に、自分が伝えたいことがあるのならば、絶対相手は耳を傾ける。
それが意識が高そうな社会的な話、政治の話、そんなものである必要は全くなくて、
自分の面白い経験、好きな趣味、アニメ、アイドル、音楽、なんでもいい。
自分が熱く語れるものがないのに、無駄にテクニックだけ磨いたって何にもならないよ。