限りなく院生に近いパリピ@エストニア

エストニアという国で一人ダラダラしてます。

単純に男にモテたいなら、女子力上げるより胸を盛れ

こういう話、前から書こう書こうと思ってた。

僕は科学者にもエンジニアにもなれるほど知識もスキルもないが、今の僕の研究テーマも考慮して、科学を非科学にぶち当てるのが結構好きだ。

マーケティングや恋愛、経済などに科学を適応した話に出会い、

「科学って面白いじゃん!」

と思ったのが、未だに勉強している理由でもある。

だから宇宙とか素粒子とかに興味を持って科学を専攻する大多数に比べられ、

よく先輩とかからは「お前変わってるな」

と言われたりする。

さて、前置きはこの辺にして本題に入りたい。

恋愛を科学で証明しよう。

ちなみに、心理学は日本では文学に属するが、欧米では科学に属するので心理学も科学という前提でいく。

まずはじめに男性にモテる女性の像ってなんだろう。

優しい、美人、気がきく、明るい、清楚、ノリが良い、etc...

こんなところか。

また、料理ができ、家庭的で優しい。

こういった俗に言う「女子力の高い女子」

というのも人気の一つであろう。

世間で「女子力」という言葉が使われているのも、

女子力が高いと人気者になれる要因になりうるからではないだろうか。

それゆえ世の女子は、美容に気を配り、料理の勉強をし、合コンや飲みの席では、

料理を取り分けたりなど常に気を配る努力をする。

いろいろできる万能女子、さらに見た目もよければ完璧でモテモテというわけだ。

だがはっきり言う。

そんなに大変な努力をしなくたって手っ取り早く男性にモテる方法あるよ

あくまでこれは僕の個人的見解ではなく、科学的に証明されていることである。

男性と女性の異性に求めるものの違いを見ていこう。

まず女性という生物は、男性にアベレージを求める

顔がカッコいいだけでは足りず、収入や学歴、職種などなど

そういったあらゆるものを評価して、相手を見る傾向がある。

これは女性は子供を産める回数が限られているために、生物学的にもやはりパートナー選びには、男性より慎重になるからであろう。

一言でまとめると、女性はアベレージが高い男性を好きになる傾向がある。

一方で男性は違う。

男は「一点豪華主義と言われている。

これは、一つ目立つ特徴さえあれば男性は女性を好きになる確率があるということだ。

例えば、

目が大きいから好き、胸が大きいから好き、スタイルがいいから好き、というように何か一つ気を惹く魅力があれば男性は女性を好きになる。(これを世間は変態と呼びますが...)

つまり、男性はクソ単純でアホな生き物ということである。

おそらく男性は女性と違い子供をいくらでも作ることが理論的には可能であるため、単純な恋愛観でも問題ないということなのであろう。

だがここにカラクリがある

女性はアベレージ主義のため、男性もアベレージ主義なのではないかと勘違いして、

女性自身もアベレージを上げる努力をする方向に走りがちということだ。

違う。男は一点豪華主義だ。

つまりタイトルにあるように、いろんな努力をして女子力をあげるより、

胸を盛る方が、圧倒的簡単に男の気を惹くことができる科学的には明白である。

もちろん結婚して長く付き合っていかなければならないなら、女子力というのは必須になるかもしれないが、

「ただ単純にモテたい!男の子にちやほやされたい!」

というのならば、小細工してでも胸を盛る、スタイルが良いのならそれが強調される服を着てみる、また特技や性格などで自分の光る部分があるなら、それを磨きまくった方が慣れないことをやるよりも効率が良いと思う。

って書いているうちにこれ誰の何のために書いているのかわからないことに気づいた...

結論:

男が単純な生き物なのは科学的に明白である。

偏差値教育は偉大。

海外の大学に進学して感じていることの一つに偏差値教育の偉大性をあげられる。

めっちゃ偉大でしょ!だって学生の視野狭めまくりだもん。

まぁ私自身は偏差値がかなり低めのド3流一般市民だから、

偏差値教育の影響なんてほとんど受けてないのだが....

なんだろ。「偏差値」って予備校などが定めた日本特有の数値ということをご存知だろうか。

もしかしたら海外にもあるのかな?今のところ聞いたことはないなぁ。

中学、高校くらいになると受験を控えている学生は、

偏差値という言葉にとても敏感になる。

「ここは偏差値が低いからダメ」

「あそこは偏差値が高いからすごい」

みたいな。

そして模試の結果と照らし合わせて、

自分の偏差値にあった学校へ進学をする

学校を偏差値でしか見ていない。

厄介なのは人の価値も偏差値によってある程度決められてしまう点である。

「どこ大学なんですか?」

「〇〇大学です」

「えー!あの〇〇大学なんですか!」

こういうような会話というのはよくあると思うが、

それ以上踏み込むことがあまりないのが現実だ。

このような会話で人を判断していては、表面的な人間と思われておしまいである。

僕が海外に来ていて大きく違いを感じているのは、人の判断基準の違いである。

僕は大学で物理を専攻しているのだが、パーティーなどに参加し、

いろんな人とコミュニケーションをとっていると必ず全員、

「何の勉強しているの?」

と聞いてくる。

「どこの大学なの?」

という質問無しで、専攻について尋ねられることも少なくない。

そこで「物理やってるんだよね」

と答えると、相手の態度がガラッと変わり、

「頭いい...」

という反応をされる。

もちろん物理なんて全然理解できない知能で、他人に頭がいいなんて思われたくないので、

「でも全く理解してないんだ。物理なんて人間がやる学問じゃないよw」

って言うと笑ってくれて、簡単に打ち解けることができる。(このフレーズを多用している。)

つまり、外国人の方が、その人の肩書きだけでなく、その人が何者なのか?

という本質的な部分に注目する傾向があると言える。

日本人はあまり学部学科までは聞かないだろう。

僕もよく後々

「え、理系だったの!?!?」

という反応を受けるwww (確かに理系っぽい頭の良さは兼ね備えてないからな...)

僕は一度オックスフォード大学の特別講義に参加したことがあるが、

オックスフォードってだけで目を輝かせている意識高い勢もたくさんいたが、

「オックスフォード!?頭いいね!で、君は何ができるの?」

というように、それだけで人を判断しない傾向も見られた。

大学の選択基準もレベルだけで判断していないのも特徴だ。

もちろん裕福で頭のいい人達は、それなりに名門校に進学するのが普通だが、

学費や校風、研究設備、教授、国柄、カリキュラム、etc....

そういった全ての情報を考慮して学校を選んでいる。

そのためカリフォルニア工科大といった超一流大学合格者もうちの大学にいたりする。(と言っても一応うちも世界TOP1%周辺大学ではあるが...)

学校の選び方がより本質的であるがゆえに、

学校に入った後も目的意識の強い学生が多く、進路についても深く考えて行動している学生がはるかに海外の方が多いのも、そもそも入学する時点でこれだけ思考回路が違う点で納得できるだろう。

日本の場合、偏差値でしか進路を決めないため、入学したことで満足してしまい、

そのあとほとんど虚無といったような時間を過ごし、周りが就活を始めるのに合わせ、自分も進路について少し考え始める。

だが、そもそも大学入学の目的がないため、

「あれ?俺ってこれからどうすればいいんだろう」

という悩みに直面してしまう。

「偏差値」というのは一つの統計データであり、それもちゃんとした進路選びの目安になる。偏差値が高い大学ほど、質も比例して高いという統計は嘘ではないだろう。

しかし、それだけで判断してしまって良いのだろうか?

偏差値は自尊心を満たすためだけの数値にしかなりえないのではないだろうか。

偏差値教育によって救われている学生も少なくないかもしれないが、

この特異な教育方法によって学生の視野が狭くなってしまっていることも頭の片隅に入れておきたい。

皆、働くためにお金を使っている。

周りがどんどん社会人になり、働いてお金を稼いでる中、

大学卒業と同時に職に就かず、ニート生活を半年送ったのに、たまたま合格した大学院に行き、現在ももちろん働いていないのだが、そこである矛盾に気づいた。

お金を稼ぐために働いているはずが、働くことでお金を消費してしまっている部分は大きいんじゃないかな?

ということである。

大学卒業してニートしていた頃も、現在異国エストニアで大学院生をしている今も、

お金というものをあまり使っていない。(俺の性格だからかもしれないが...)

以前、少ないお金で効率生きるニート的な生活を推奨したのだが、

今回はそれに似ている話をしたい。

働くため」にお金を使っていることを意識したことはあるか?

  • 毎日の通勤にいくらお金がかかっているか
  • できる社会人に見える服や装飾品、メイクのためにどれだけお金がかかっているか
  • 無駄に感じる接待や、飲み会にどれだけお金がかかっているか
  • 子供がいる人は、託児所や保育園、ベビーシッターにどれだけお金がかかっているか。

などなど、考えればたくさん出てくるが、これらは働かなければかからないお金である。

 もちろんその立場にならないと実感できないと思うが、

仕事に関する出費が減れば、生活コストは下がると思う。

こういう話をすると、

「いや老後のために...」

という意見をよく耳にする。妥当な意見だろう。

なかなか難しい問題で、共感を得るのは大変だと思うが、将来が不安なのは実は僕も同じで、気持ちはよく理解できる。だがそれも考え方次第じゃないかな。

老後は何にお金を使うかをよく考えなければならない。

わかりやすく言うと、

何が本当に必要で、何があれば快適な生活を送れるか、そして何を諦めれば良いのか」である。

ここで多くの人が勘違いしていると思うが、

諦めなければいけないものは、そんなに多くない

というだ。

ポイントは2つ、

  1.  優先順位をうまくつける。
  2. そして重要ではないことを気にしない。

例えば、会社を退社し、社会人を引退すれば都内の家賃の高い場所にいる必要はなくなる。そういった働いてる時は必要条件だった事実に縛られなくなるということである。

それらを考慮すると、老後というのはそれほどお金のかからない世界だと予想できる。(一方で金の無い老後は悲惨だぁぁぁぁぁぁ。ほどほどにな)

結論として、僕はまだ働いたことは無いから偉そうに断定することはできないが、

"働くことの本質" を見失わないこと、考えることは、働く人にとって大切なんじゃないかな。