限りなく院生に近いパリピ@エストニア

エストニアという国で一人ダラダラしてます。

"怠け者" が国を発展させる

本当は「ニートが国を発展させる」くらいなタイトルにしたかったが、さすがにそれは盛りすぎな気がしたからやめておく。

ニート」及び「怠け者」というのは、世間から見たら邪魔な存在で、社会的ヒエラルキーの最下層に位置させられていると言っても、過言ではないだろう。

つまり、俺は社会の底辺ってことになるのか!?

それはさておき、ここで注目していきたいのは、その社会から嫌われた "怠け者的発想" が国を発展させる可能性についてだ。

意識高い系大学生の好物といえば、「発展途上国」である。

これだけ世界には発展や経済的に安定をしている国がたくさんあり、そこでの生活が当たり前になっている我々からしてみれば、想像がつかないような原始的な生活をまだまだしている貧しい国や地域がある。

あ、ちなみに僕は原始的な生活全然OKな人ですよ。

発展途上国というと、働かないイメージがあると思うが、実際は悪い意味で働き者が多いと思っている。(旅好きとはいえ、まだ途上国に実際に行った事はない...)

例えば、毎日何キロも離れた場所に水を汲みに行ってはあんな重い液体を何キロも運び、そしてまた水を汲んでまた帰るという作業を延々とやっているわけだ。テレビでも見た事あるだろう。

一方で、これが日本の場合、おそらく早急に山に穴をぶち抜くかなんかをし、村の近くに水源を作る、あるいは近くから水を引いてくる設備を整えるはずだ。ゆえに発展してきた。

この違いというのは、もちろん知恵や教育といった部分もあると思うが、根本にあるのは、

「もっと楽したい...」

ではないのか?

「毎日何キロも水汲むのだるくね?もっと楽な方法あるでしょ絶対。」

こういう発想から、効率化が実現するのである。

つまり、発展途上国というのは全く働いてないわけではなく、頭を使わず、フィジカル押しでガンガン働いていることで、「俺たちは働いているぜ」と満足しているとも言える。

この時代にこんな原始的な肉体労働が儲かるわけがない。儲からないから資本が国内に蓄積されないし、投資する人も消費する人もおらず、経済も回らない。結果、発展しないというわけだ。

ニートとして生きる」「怠けながら生きる」というのは、世間が思っている以上に頭を使う生き方である。

なんせ、最小エナジーで生きていかなければいけないからだ。

しかし、世間や社会では「ゴミ」とされている生き方にも、国を発展させるほどの発想のヒントはあるのではないだろうか。

数学を嫌いにする教育方法

若者の理系離れが著しいらしい。

毎年世界中でも多くの物理、数学専攻の学生が、授業についていけなくなり、専攻をITや文系科目に変更していく。

ちょうど僕のいる大学も同じだ。最初は50~60人の物理専攻学生がいたのに、大学院で物理を続けている学生の人数は、現在僕を含む留学生を含め10人くらいである。

転科の理由を聞くと多数は、「忙しすぎる。難しすぎる」と返ってくる。

これは日本でも同じである。

中学、高校レベルの数学で、多くの学生が数学苦手を訴え、離れる。

そしてみんな「私には数学の才能がない」と思い込む。

正直言って、僕も数学は非常に苦手である。

高校や大学の数学の成績なんてひどいものだ。人に見せられたものではない。

だが、嫌々ながら続けたことで気づいたことがある。

「数学は才能ではない」ということだ。

いや正確に言えば、数学の才能を持つ天才は存在する。

僕が言いたいのは、誰でも「数学の才能がない」という最悪な思い込みから解放できるということだ。

まず、なぜ人が数学を嫌いになるのかを考えてみよう。

難しい、理解できない、ついていけない......こんなところだろうか。

では、どこで数学を嫌いになってしまったのだろうか。

足し算、引き算の時点で、拒絶するほど苦手な人は少ないはずだ。

では、関数や方程式が現れ始める、高校あたりだろうか。

受験前に文系理系を決める高校2、3年で、大多数の学生が数学が苦手という理由で、文系進学を目指し始める時期だ。

ここに数学を嫌いになる答えがある。

例えば、歴史や国語、社会といった文系科目は、基本的にどこから入ってもついていくことが可能である。

縄文、弥生時代を勉強していなくても、江戸時代を勉強することは可能である。もちろん、歴史全体を把握する必要はあるが、僕が言いたいのは途中参戦できるということだ。暗記科目と言われるのも納得できるだろう。

一方で、数学や科学はそれができない。

足し算ができないと、掛け算はできない。二次関数ができなければ、三次関数はできない。

だがそれでいて、学校教育というのは残酷である。

なぜなら、理解していようがしていまいが、授業は進んでしまうからだ。

建物に例えてみよう。

1階がまだ未完成のうちに、無理に2階、3階と建築していってしまうと、いずれどこかで耐えられなくなり、建物が崩壊する。

これが、数学を嫌いになるメカニズムである。

理解力や興味というのは個人差があると思う。だから数学をみんな同じペースで、一緒に学校で学ぶことには無理があるのだ。

僕は数学が得意ではない理由に気づいたのは、1階が未完成のまま2階の建築を始めてしまったからである。

だが、大学、大学院で物理を勉強しながら、1階が未完成のことに気づき、崩壊する前に、そのたび下の階に降りて修復を繰り返してきた。

その繰り返しが、こんな数学苦手な僕にも「あれ、数学って結構面白いかも?」と思わせ、現在も続けている理由である。

最後に、数学というのは才能がなくても学ぶことは可能だ。

だが、「数学の才能がない」と学生に思わせてしまう、教育には問題があると思う。

数学という高度な学問をする人間は一部の天才だけで良いかもしれない。

しかし、これだけテクノロジーの発展が注目されている時代に、早い段階で学生の数学への興味すら潰してしまう今のやり方というのは矛盾しているかもしれない。

 

ニートやれるうちはニートでいいと思う。

ニート出来るうちはニートやってていいと思う。

働きたいなら働けばいいし。

むしろ「働きたい!!」って思うことが、効率的な発想を生み出す妨げにだってなる。

「出来る限り働きたくないな」「もっと楽したいな」

という考えが、もっと効率の良い方法を生み出す種になる可能性は大いにある。

だから逆に労働意欲旺盛な社会人や、やたらビジネスをすることに背意欲的な学生というのは、盲目になっている部分もたくさんあると思う。

それに、ニートだから見えてくることってたくさんある。

僕は大学を卒業して半年間は正真正銘のニートだったわけだが、解放感しかなかったな。

社会が自分を必要としてない、どこか自分だけ街ゆく人から外れた存在、透明人間になった気分。

そこから見える社会の姿というのは、ニートにしか見えない。

一生懸命働き、仕事だけしている人というのは、どうしても発想のリソースが仕事からだけになりがちだ。全然ユニークではない。

例えば、マルクス資本論で有名なマルクスは、実はニートである。

職に就かず、親の財産で遊びまくり、友人にお金を借りまくってまで、フラフラしていた男だ。

だが一方で、だからこそ「マルクス資本論」という世界的大ヒットな考えを生み出すことができたと言える。

働いている人にはできない、新しい社会の見方をすることができたということだ。

つまり、人というのは価値のあると言われている経験を、価値がある経験と思ってしまう傾向があるが、何が自分の糧、きっかけになるのかなんて本当は誰にもわからないのだ。

だから、ニートしたいならニートすればいいと思う。