コミュ力の高さを売りにしている奴は、自分に魅力がない奴
タイトルはちょっと極端だけど、まぁそういうことでしょ。
特に日本おいてだけど、「コミュニケーション能力」というものが注目されすぎている。
そもそもコミュ力ってなんだろう。
僕にはよくわからないのだけれど、誰とでもそれなりに気まずくない会話ができたり、空気を読んだ会話がそつなくこなせます、みたいな感じかな。
コミュニケーション能力が高い人は評価され、コミュニケーション能力が低い人は見下される。
そんな社会の風潮が僕はすごく嫌いだ。
自分自身に魅力がないのに、いくらたくさん友達や知り合いを増やしても意味がない。
豊かな人間関係というのは、お互いが素直に尊敬しあうことで成立する。
お互いを尊敬しなければいけないという意識がある時点で、その関係は終わっている。
内容のない人間と友達になってくれる人間など、足したことないだろうし、無理やり魅力的な人間を知り合いに追加したところで、単なる知り合い以上にはなれないし、長く深い付き合いはできないでしょう。
コミュニケーション能力を磨いたり、友人を増やそうとする時間やエナジーがあるなら、その時間を自分自身を充実されることに使うべきだ。
コミュニケーション能力を第一に考えてる人が勘違いしてると僕が思う点は、
コミュ力なんてなくても自分自身が魅力的になれば人は集まってくる、ということである。
コミュ力なんて必要ない
僕はコミュ力なんていらないと思っている。
社会がコミュ力重視な傾向があるからって、
「自分はコミュ力がない...」
と落ち込む必要は全くない。
一番大事なのは、伝えたいことがあるかどうか。
いくらその場しのぎの会話がうまかったとしても、伝えたいことがなければ薄っぺらい会話になってしまう。
逆に、自分が伝えたいことがあるのならば、絶対相手は耳を傾ける。
それが意識が高そうな社会的な話、政治の話、そんなものである必要は全くなくて、
自分の面白い経験、好きな趣味、アニメ、アイドル、音楽、なんでもいい。
自分が熱く語れるものがないのに、無駄にテクニックだけ磨いたって何にもならないよ。
なぜ大学生は群れるのか。
誤解されないために最初に言っておく。
僕は別に群れることを悪いとは思っていない。
よろしくどうぞ。
僕自身は一人が好きだとか群れるのが好きだとか、あまりないなー。
振り返ってみれば一人の時間の方が多かったし(一人っこというのもある)、誘ったり縛られたりするのがめんどくさいから一人で行っちゃうみたいなのは多いけれど、群れてみんなでワイワイするのも楽しい。
一人をやたら好もうする人は、群れてる人に対して
「なにあいつらいつも群れて。群れないと何もできねーのかよ」
みたいなこと言ってないかい?
群れたい時は群れればいいし、一人の時は一人でいい。
それでいいではないか。
とはいいつつも、大学生を見ているとやはり群れてる側の人間の方がマジョリティーな気がする。
ただこの群れるという心理はどこから来ているのだろうか。
まるで夜の街頭にたかる虫のように。
これは同質性の社会というのを引きずっているからというのが一つあげられると思う。
やはり高校生まで特に日本は同じスタイル、同じ価値観、同じような生活を送らされてきて、それにそぐわないと仲間はずれにされる傾向が少なからずあったと思う。
日本の義務教育というのはある意味個性を死滅させるような面は持っているからね。
ところが大学に入ると、異質な他者や異なる意見や生き方を持っている人間(もちろん相手は学生とは限らない)を理解しつつ、自分というものを育てていかなければならない。
高校までの経験や教育と大学で置かれる自分の状況にギャップがあるため、これはそう簡単なものではないと思う。
時にはぶつかることも必要で、相手を傷つけるかもしれないような意見を言わなければならないこと、自分を通さなければならない場面というのも、今までに比べはるかに多くなってくるはずである。
しかし「群れる」というのは、ここでぶつかることを避けて、妥協的に遊びや楽しみに走り、無意識かつ無理やりにでも仲間意識を保とうとしているのではないだろうか。
一人外れることが怖いというのはどこかに必ずあると思う。
サークルみたいな群れだけでなく、就職活動だってみんな同じ時期に同じように始めたり、留学だって一つの冒険っぽくうたっていながら、行った先には同じような日本人がいたり、結局
「我が道をいく」
というのはなかなかできないことだと思う。
社会心理学では、人は集団になると思考停止状態に陥り、自分の考えや行動などを深くかえりみることなく無意識のうちに行動してしまうという集団心理がある。
MITとカリフォルニア大学バークレー校、カーネギーメロン大学の合同研究で、脳のMRIによる解析でこれが裏付けられている。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
という言葉は科学的にも証明ができるということだ。
集団でいる方が、ちょっとリミッターを外した理性に従わない行動を取りやすいということになる。
行動するのが怖い人にとって、集団心理の利用というのは理想の自分を描くにもってこいかもしれない。
だからむしろ、「群れる」ということは結構自然なことだと言える。
ただここから僕が一つ言いたいのは、誰でも一人で思い切った行動をしてみたいという心理はあると思うし、ただ集団心理が働くと良い意味でも悪い意味でもそういう「自分の中で見つけた違和感」というのが薄れてきてしまうから、常に違和感を大切にしていくべきだ、ということ。
自分というのは、思っている以上にコントロールするのが難しい。
海外コンプレックス
前回の記事にも書いたアリバイ留学
これと内容はかぶるところも多いんだけど、
どうやら海外へコンプレックスを抱く人は少なくないみたいだ。
学生に限らずね。
まぁ外国にいく、外国で勉強するとかいえば、
結構キラキラしててカッコよかったり、
「私はその辺の人とは違って海外志向よ」
みたいな優越感に浸ることもできるし、悪くないよね。
日本人って海外にいくことがかなり敷居の高い行動というイメージがあるから、
海外に対する憧れも強いんだと思う。
外国は陸続きだし、簡単に隣国までいけちゃうから、外国人にとっては他国にいくことはもっとポピュラー。
海外コンプレックスを持つことって別に悪いことではないと思うし、僕と違って向上心があってむしろいいことだと思うけど、見てて空回りしている人が多いんだよね。
"とりあえず海外にいけば何か変わるんじゃないか"
という期待が大きいから、多分そのまま日本にずっとい続けることが不安なんだと思う。
だけど同時に、大きな決断をする勇気もないから、ついつい中途半端な短期留学や語学留学で片付けてしまいがち。
もともとの海外のイメージがかなり高価なものだから、薄っぺらい海外体験であたかもものすごい人生が変わるような体験をしたような錯覚に陥る。
だから、Facebookを開けばみんな盛りに盛りまくった体験談を綴りまくる。
(いやいやw 所詮他の日本人留学生がたくさんいるようなところじゃねーか)
「ちょっと海外に行きました、海外思考があります」
こんな経歴、優越感に浸りたいだけなら本当にお金と時間の無駄だと思う。
何十万というお金をかけて行ったはいいけど、目的の外国語は話せるようになってません。なんじゃそりゃって感じ。
外国語を学びたければ、国内でできる。
今の時代、インターネットの語学学校にでも登録すれば格安で毎日勉強できるし、
外国人の友人が欲しければ、FacebookでもHello Talkでも使って友達作ればいいし、留学生や街中の外国人に話かければいいじゃん。
方法というのはたくさんあるはずなのに、一つの固定概念に縛られてイメージだけで行動するのはよくない。
海外コンプレックスを持ってる人間に一つだけ言えるのは、
彼らが思ってるほど海外という存在は遠くなければ、今の時代そこまで貴重な体験にもならない。
だから、期待しすぎて中途半端に自分の心の隙間の埋め合わせみたいなことをするのなら、その前にもう一度本質的に考え直したほうがいいと思う。