限りなく院生に近いパリピ@エストニア

エストニアという国で一人ダラダラしてます。

なぜ働くのか

哲学者かぶれタイムのお時間です。

なぜ人は働くのか

という疑問を殴りたい。

なぜみんな毎朝ベッドから無理やり体を引きずり出して、職場に向かうのだろうか。

僕は働いていない人間だから働く側からの言及はできないが、働いていない側から見解を綴ってみよう。

この疑問は、働いている人はみんな自分自身に投げかけているのかもしれない。

そして、真っ先に出てくる答えが、

生計を立てなければならない

という理由である。

そんなことは誰にだってわかっている。

ただこれが「なぜ働くのか?」という疑問の本質的な答えにはならないことも同時にわかっていることだろう。別に働かなくても生きてる人は腐るほどいる。

また人にとって仕事というのは、やりがいがあり、夢中になれ、もっと刺激的で、意味のあるものなのだという人もいる。そしてそれで幸せなら素晴らしいことだ。

一方でお金がもらえないなら仕事をしないとしても、それ自体が仕事をする理由にはならない。

一般的に仕事をする動機として物質的な報酬を理由に挙げるのには、抵抗がある。

「金のために働いている」というのはあまり記述的と言えないからである。

ではなぜ大多数の人が、単調で無意味で命をすり減らすような仕事をしている状況を許しているのだろうか。

なぜ、資本主義の発展につれ、仕事から得られる物質的報酬(お金)以外に、満足感を失わせてしまうような生産形態が生み出されたのだろうか。賃金以外に仕事をしようと思う理由とは何なのだろうか。

その答えは科学にあるかもしれない。

ここでの科学はモノの科学ではない。アイデアの科学である。

科学というのは、モノだけでなくアイデアも生み出す。

また物事を理解する方法も生み出す。そして社会科学が生み出した理解の方法は、我々自身を理解する方法である。

科学というのは、私たちがどう考え、何を望み、どう振る舞うかに多いな影響を及ぼしている。

モノを創り出す科学は、そのモノがダメなものや使えないものになった瞬間、無くなってしまう。

しかし、アイデアの科学は、それを正しいと信じる人がいる限り無くならない。

なぜなら、

それを正しいと思う人々が、そのアイデアが間違っていたとしても、その間違ったアイデアに合致した生活様式や組織を作り出していくからである。

そのようにして産業革命は、労働システムを作り出した。

ここでいう仕事とは1日の終わりに給料以外に満足感が得られるものが全くないような場所を指す。産業革命の父の一人であるアダムスミスは、

人間というのは本質的に怠惰なもの

と考えていた。

やりがいを与えてやらない限り、何もするとこがなく、やりがいとなるのは報酬だけとなり、それが唯一の働く理由なんだと、

そういった間違った理由で労働システムが作られてしまった。

しかし、一度そのシステムが作られてしまうと、人の働く方法はそれ以外なくなってしまったのである。

ここ最近の年配の社会人、上司たちは口を揃えて言っている。

「良い働き手が得られない。」

「最近の若者は...」

これは完全に間違っていると僕は思う。

屈辱的で心をなくすような仕事を与えているから

良い働き手が得られないのではないか。

単調な作業で、心を奪うような仕事は、

通常人間としてあり得る限り、愚かなものになる。

このような職場のあり方は、その職場の要求に適合した人間を作り出し、

僕らが当然と思っているような仕事を得る喜びを奪ってしまうということである。

自然科学の場合、宇宙について素晴らしい理論を考えながら、宇宙が我々の意に介することはないと思っていられる。我々が宇宙に対し、どんな理論を持っていようが宇宙というのは変わらず存在し続ける。

しかし、人間の性質についての理論は、こう上手くいかない。

人間というは、何かを説明し、人間を理解する助けとなるべく作られた理論が、人間の性質自体を変えてしまうからである。

有名な文化人類学者であるクリフォード・ギアツがかつてこんなことを言っていた。

人間は未完成の動物である。

これが意味しているのは、人間の性質というのはその人が住む社会の産物ということだ。

人間の性質というのはあくまで「我々にとって」の人間の性質であり、宇宙理論などのように発見されるものではなく、作られるものである。

つまり、

人々はその社会というものの中で生き、働く組織をデザインすることによって、自分自身の性質をデザインするのだ

だから、どのような人間をデザインしようと思うのかというのを、働くことを通して常に自らに問う必要があるのだと思う。