数学を嫌いにする教育方法
若者の理系離れが著しいらしい。
毎年世界中でも多くの物理、数学専攻の学生が、授業についていけなくなり、専攻をITや文系科目に変更していく。
ちょうど僕のいる大学も同じだ。最初は50~60人の物理専攻学生がいたのに、大学院で物理を続けている学生の人数は、現在僕を含む留学生を含め10人くらいである。
転科の理由を聞くと多数は、「忙しすぎる。難しすぎる」と返ってくる。
これは日本でも同じである。
中学、高校レベルの数学で、多くの学生が数学苦手を訴え、離れる。
そしてみんな「私には数学の才能がない」と思い込む。
正直言って、僕も数学は非常に苦手である。
高校や大学の数学の成績なんてひどいものだ。人に見せられたものではない。
だが、嫌々ながら続けたことで気づいたことがある。
「数学は才能ではない」ということだ。
いや正確に言えば、数学の才能を持つ天才は存在する。
僕が言いたいのは、誰でも「数学の才能がない」という最悪な思い込みから解放できるということだ。
まず、なぜ人が数学を嫌いになるのかを考えてみよう。
難しい、理解できない、ついていけない......こんなところだろうか。
では、どこで数学を嫌いになってしまったのだろうか。
足し算、引き算の時点で、拒絶するほど苦手な人は少ないはずだ。
では、関数や方程式が現れ始める、高校あたりだろうか。
受験前に文系理系を決める高校2、3年で、大多数の学生が数学が苦手という理由で、文系進学を目指し始める時期だ。
ここに数学を嫌いになる答えがある。
例えば、歴史や国語、社会といった文系科目は、基本的にどこから入ってもついていくことが可能である。
縄文、弥生時代を勉強していなくても、江戸時代を勉強することは可能である。もちろん、歴史全体を把握する必要はあるが、僕が言いたいのは途中参戦できるということだ。暗記科目と言われるのも納得できるだろう。
一方で、数学や科学はそれができない。
足し算ができないと、掛け算はできない。二次関数ができなければ、三次関数はできない。
だがそれでいて、学校教育というのは残酷である。
なぜなら、理解していようがしていまいが、授業は進んでしまうからだ。
建物に例えてみよう。
1階がまだ未完成のうちに、無理に2階、3階と建築していってしまうと、いずれどこかで耐えられなくなり、建物が崩壊する。
これが、数学を嫌いになるメカニズムである。
理解力や興味というのは個人差があると思う。だから数学をみんな同じペースで、一緒に学校で学ぶことには無理があるのだ。
僕は数学が得意ではない理由に気づいたのは、1階が未完成のまま2階の建築を始めてしまったからである。
だが、大学、大学院で物理を勉強しながら、1階が未完成のことに気づき、崩壊する前に、そのたび下の階に降りて修復を繰り返してきた。
その繰り返しが、こんな数学苦手な僕にも「あれ、数学って結構面白いかも?」と思わせ、現在も続けている理由である。
最後に、数学というのは才能がなくても学ぶことは可能だ。
だが、「数学の才能がない」と学生に思わせてしまう、教育には問題があると思う。
数学という高度な学問をする人間は一部の天才だけで良いかもしれない。
しかし、これだけテクノロジーの発展が注目されている時代に、早い段階で学生の数学への興味すら潰してしまう今のやり方というのは矛盾しているかもしれない。