限りなく院生に近いパリピ@エストニア

エストニアという国で一人ダラダラしてます。

なぜ見知らぬ人と会話をする必要があるのか。

我々は子供の頃からよく「挨拶をしなさい」と言われる。

近所の人や、同じマンションに住んでいる人に挨拶をする習慣があるのは、僕だけではないはずだ。

そしてやがて挨拶だけにとどまらず、会話をすることもあるだろう。

「こんにちは。最近調子どうですか?」「いい天気ですね」

調子はどうですか、なんてフレーズは英語でしか使ったことはないが、こう言った軽い、そして意味のない会話をすることはよくある。

旅をしている時もそうだ。

相部屋になった人と、

「Hello, How are you」

と言った具合だ。

しかし、ここで面白いことは、

誰も別に相手の調子、今日の天気になんて興味ないということである。

興味がないのに会話を始める。

意味がわからない。

そして、お互いに全く踏み込むこともない表面だけの会話を続けて終わる。

例えばエジプトでは他人を無視するのは無礼と思う習慣がある。

赤の他人に一口の水を進める、誰かに道を尋ねたら家で一服していくように誘われる、こういったことは普通のことのようだ。

なぜ人はこんなにも家族や友人以外と繋がりたがるのだろうか。

そこには「束の間の親密」というものがあるのかもしれない。

例えば、通勤電車の中で誰かと話したり、行列がなかなか進まない時に前後の人と会話をする。こういった行為は、自分と同じ状況下や時間を過ごしている他人と束の間のコミュニティーを形成することで、深い共感をしているのである。

そしてその共感をいうものが、それ以上になる可能性も大いにある。

友達や家族よりも赤の他人の方が、自分の本当の気持ちについて正直でオープンになれる可能性がある、ということが研究で証明されているらしい。他人の方が理解してくれるということだ。

この特別な形をした「親密さ」というものが、我々が友達や家族以外に他人との繋がりを必要としている理由の一つなのかもしれない。

一見親しい友人や親しい家族との方が心を通じ、正直になれそうな気がする。

だが、面白いことに実は逆なのだ。その理由は2つあげられる。

まず第一に、一時的な交流の方が正直になれるということだ。

もう2度と出会うことのない人間に正直になることは簡単である。

もう一つは、我々人間は親しい人間に対し、理解をしてくれるだろうという期待をしてしまう傾向がある。「言わなくてもわかるでしょ。」「気持ちを汲み取ってよ」こういう感情のことだ。

一方で見知らぬ人に対しては、0から説明を始める。省略することなく、自分が何者で、相手のことをどう感じているのはを丁寧に説明する。それゆえ、赤の他人の方が理解者になるという現象が起こるのである。

これらの事実を考慮して、私たちがするべき行動は、

「赤の他人へのぶっちゃけ話」

である。

「仕事は?」「恋人は?」「年収は?」「家族構成は?」

全部正直に答える。

一見ただの無防備に見えるが、逆にそれが効果的なのだ。

人は無防備な相手に安心をする。

それが、見知らぬ他人との距離を一気に縮めるきっかけにもなるのである。

そして他人へのオープンな心は、予期せぬ繋がりをも生み出すかもしれない。

それは、表面的な探り探りな会話からでは巡り会うこともない。

最初の話に戻るが、大人というのは子供に見知らぬ人のことを教えるのに多くの時間を使う。そうではなく、私たちが見知らぬ人に自分のことを教えるのに、多くの時間を使ったら何が起こるのだろうか。お互いを疑いの目で見させるような目を捨て、変化を生み出す場まで形成することが可能だと思わないか。