限りなく院生に近いパリピ@エストニア

エストニアという国で一人ダラダラしてます。

恋に落ちるメカニズム

僕が恋愛に興味を持ったのは失恋しすぎて、メンタルが爆死しそうになってた時に、

「モテない理由があるはずだ!」

「なんで失恋を引きずるのだろうか」

など、いろんなことを分析してみた結果、科学的な知識によって失恋を乗り終えることができたからなのだが....まぁその結果本能の従えないクソつまらん人間になってしまった。

だから一般的に恋愛が好きな人や、恋愛トークが好きな女子とかとは違い、

恋という現象そのものに興味がある。

だって、人間以外の動物は基本恋愛をしなかったり、生殖機能が衰えても長生きする動物って人間だけだっていうの、めっちゃ気になりません??

そもそも恋に落ちるメカニズムを知り、それをコントロールできれば、うまく生きることができるのではないか!?

まぁこれ現実を知ることで現実逃避してるみたいな感じなんすよね...

じゃあなんで恋に落ちるのか?

これには脳が関係しているのだが、

眼窩前頭皮質と呼ばれる、眼球を覆う骨の上らへんにある部位が恋愛をすると活性化する。

簡単に言うと、ここが活性化されると幾つかの恋愛ホルモンが分泌され、それぞれが置いする男女に影響を及ぼすというわけだ。

代表的な恋愛ホルモン、恋愛脳内物質に、

PED(フェニルエチルアミン)という物質がある。

これらの物質は特に恋愛に関係していると言われ、異性に好意を持ったり、何かに集中している時に脳内で分泌されるホルモンである。

こいつが、脳下垂体から分泌され、脳内で性的興奮と快感に直接関係する神経伝達物質として機能する。

一目惚れや恋やつれといった現象は、すべてこのPEDが関係しており、例えばれない初期の好きな人に会った時のドキドキ感や気持ちがめっちゃ高揚する感覚、これらの感情感覚をコントロールする恋愛ホルモンとして働く。

そして恋に夢中な時は、恋の媚薬ホルモンPEDの作用で、興奮系ホルモンのドーパミンが大量に誘発されることになる。

つまり、「人が恋に落ちる」という状態は、脳内でPEDというホルモン濃度が上昇することで、脳が快感を示していることを表す。

ただここに少し危険性があって、

恋愛に夢中な人の脳と、コカイン中毒者の脳をMRIでスキャンし比較してところ、両者に違いが見られなかったというデータが出たらしい。

だから恋は中毒性を生み出し、失恋をした人が死にたいと本気で思うくらい泣き狂うのは、麻薬を断ち切った薬物中毒者が禁断衝動に苦しむのと同じ状態なのである。

さらに恋をしている際に、批判や性格な判断ができなくなるのも、脳内でドーパミンの大量分泌で快楽が感じられ、扁桃体、頭頂側頭結合部の動きを鈍化させるからである。

これを知ってから、例えばSNSとかでやたらデートや恋人の写真を上げたがる人を見ると、

「あ〜中毒者や...」

としてしか見れなくなってしまった。

ある意味恋に夢中な時は、脳が異常な状態なので、

そのうち覚めてしまうのも理にかなっている。

SNSでの恋報告が多いカップルがすぐ別れるのも、脳科学で簡単に証明できることだろう。

それより僕が興味あるのは、恋愛ホルモンを人工的に生成することができれば、世界中誰でも恋ができるのでないか?ということだ。

なんなら少子化も防げるかも!?!?

まぁ道徳に反するかもしれないね...

いいなぁ♡と思う異性がいたら、チョコを食わせろ

もうバレンタインデーもホワイトデーも過ぎてしまい、旬な話ではないのだが、

チョコレートによる恋愛効果について科学的な話を綴ろうと思う。

(あ、僕は今年も安定の無チョコバレンタインをエストニアでも過ごしましたよ!!)

タイトルにあるように、我々は常にチョコレートをポケットに忍ばせておいた方がいいかもしれない。

そんで、いいなぁと思う異性がいたらチョコをあげちゃう。

なぜなら、チョコレートに含まれている成分というのは、気持ちを高揚させて、目の前にいる異性を素敵に見せる効果があるらしい!

そもそもチョコレートはもともと媚薬である。

今の若者はこの事実を知っている人は少ないんじゃないかな。

つまり、Hをする前に飲んでいたということだ。

代表的な恋愛ホルモン、恋愛脳内物質に、

PED(フェニルエチルアミン)というものがある。

これの物質は特に恋愛に関係していると言われていて、異性に好意を持ったり、何かに集中している時に脳内で分泌されるホルモンである。

こいつは、脳下垂体から分泌され、脳内で性的興奮と快感に直接関係する神経伝達物質として機能する。

一目惚れや、恋やつれなどの現象は全てこの「PED」が関係しており、たとえば恋愛初期の好きな人に会った時のドキドキ感や気持ちがめっちゃ高揚する感覚、これらの感覚感情をコントロールする恋愛ホルモンとして働く

恋に夢中な時は、恋の媚薬ホルモンPEDの作用で、興奮系ホルモンのドーパミンが大量に誘発される。

つまり、「人が恋に落ちる」という現象、状態は、脳内でPEDというホルモン濃度が上昇することで、脳が快感を示していることになる

では、これとチョコレートがどう関係あるのだろうか。

実はチョコレートには、恋愛科学物質が含まれているという発見があったのだ。

しかし、このPEDは消化の際に分解されてしまい、チョコレートを食べても脳に作用することはないという科学的な否定があった

「あれ?じゃあ意味ないじゃん...」

しかし、再び2007年に、チョコレートにはまるで「恋に落ちた」かのような感覚をもたらすという実験結果が報告されたのだ。

この実験というのは、「チョコレートを口の中で溶かす」時と、「情熱的にキスをする」時の心拍数と脳の活動状態を比べるというのもので、20代のカップルを被験体に行われた。

そしてその結果、ブラックチョコレートを食べている時の心拍数がなんと、キスをしている時の2倍にまで上昇するということが明らかになった。

そしてチョコレートが舌の上で溶け始めた際、脳のすべてのパーツがキスをしている間に見られたものよりも、はるかに激しく発動したみたいだ。

これは男女同じような結果が得られたと言われている。

つまり、このチョコレートによる気持ちの高揚で、

「もしかして!!恋かも!?!?」

という誤解をされることができるかもしれない!

そもそも、人間は脳をコントロールしているのか、脳にコントロールされているのかよくわからないので、こう言った脳を騙すというのは意外と効果があると僕は思っている。(と言っても実際にチョコをあげたことなんてないっすよ...)

さらに、説得力を上げる裏付けをすると、

アメリカでは実際にAV男優の中にチョコを食べてから撮影に臨む人もいるらしい。(あくまでネットで知った情報ですが...)

また、ブランデーなどのアルコールの入ったチョコレートは、アルコールによって副交感神経が刺激され、リラックスすると同時に皮膚の感度が上がってしまい。まんまと異性に落とされやすくなってしまう。

バレンタインに好きな男の子にチョコレートを渡すという行為は、理にかなっているのかもしれない。

実験データが得られる前から、人間は本能的にチョコレートを使って異性を捕まえるという行為が行われていたのは、本当に興味深いな。

だがしかし、どのくらい即効性があって、

実際に、統計的にチョコを食べさせたグループとそうでないグループでカップルの誕生にどのくらい差があったのか、などという研究は今の所行われていなさそうなので、効果に関してはなんとも言えないが、

ガムを上げる感覚で、チョコをあげてみてはいかがだろうか。

多分チョコ嫌いな人いないだろうし。

なぜ働くのか

哲学者かぶれタイムのお時間です。

なぜ人は働くのか

という疑問を殴りたい。

なぜみんな毎朝ベッドから無理やり体を引きずり出して、職場に向かうのだろうか。

僕は働いていない人間だから働く側からの言及はできないが、働いていない側から見解を綴ってみよう。

この疑問は、働いている人はみんな自分自身に投げかけているのかもしれない。

そして、真っ先に出てくる答えが、

生計を立てなければならない

という理由である。

そんなことは誰にだってわかっている。

ただこれが「なぜ働くのか?」という疑問の本質的な答えにはならないことも同時にわかっていることだろう。別に働かなくても生きてる人は腐るほどいる。

また人にとって仕事というのは、やりがいがあり、夢中になれ、もっと刺激的で、意味のあるものなのだという人もいる。そしてそれで幸せなら素晴らしいことだ。

一方でお金がもらえないなら仕事をしないとしても、それ自体が仕事をする理由にはならない。

一般的に仕事をする動機として物質的な報酬を理由に挙げるのには、抵抗がある。

「金のために働いている」というのはあまり記述的と言えないからである。

ではなぜ大多数の人が、単調で無意味で命をすり減らすような仕事をしている状況を許しているのだろうか。

なぜ、資本主義の発展につれ、仕事から得られる物質的報酬(お金)以外に、満足感を失わせてしまうような生産形態が生み出されたのだろうか。賃金以外に仕事をしようと思う理由とは何なのだろうか。

その答えは科学にあるかもしれない。

ここでの科学はモノの科学ではない。アイデアの科学である。

科学というのは、モノだけでなくアイデアも生み出す。

また物事を理解する方法も生み出す。そして社会科学が生み出した理解の方法は、我々自身を理解する方法である。

科学というのは、私たちがどう考え、何を望み、どう振る舞うかに多いな影響を及ぼしている。

モノを創り出す科学は、そのモノがダメなものや使えないものになった瞬間、無くなってしまう。

しかし、アイデアの科学は、それを正しいと信じる人がいる限り無くならない。

なぜなら、

それを正しいと思う人々が、そのアイデアが間違っていたとしても、その間違ったアイデアに合致した生活様式や組織を作り出していくからである。

そのようにして産業革命は、労働システムを作り出した。

ここでいう仕事とは1日の終わりに給料以外に満足感が得られるものが全くないような場所を指す。産業革命の父の一人であるアダムスミスは、

人間というのは本質的に怠惰なもの

と考えていた。

やりがいを与えてやらない限り、何もするとこがなく、やりがいとなるのは報酬だけとなり、それが唯一の働く理由なんだと、

そういった間違った理由で労働システムが作られてしまった。

しかし、一度そのシステムが作られてしまうと、人の働く方法はそれ以外なくなってしまったのである。

ここ最近の年配の社会人、上司たちは口を揃えて言っている。

「良い働き手が得られない。」

「最近の若者は...」

これは完全に間違っていると僕は思う。

屈辱的で心をなくすような仕事を与えているから

良い働き手が得られないのではないか。

単調な作業で、心を奪うような仕事は、

通常人間としてあり得る限り、愚かなものになる。

このような職場のあり方は、その職場の要求に適合した人間を作り出し、

僕らが当然と思っているような仕事を得る喜びを奪ってしまうということである。

自然科学の場合、宇宙について素晴らしい理論を考えながら、宇宙が我々の意に介することはないと思っていられる。我々が宇宙に対し、どんな理論を持っていようが宇宙というのは変わらず存在し続ける。

しかし、人間の性質についての理論は、こう上手くいかない。

人間というは、何かを説明し、人間を理解する助けとなるべく作られた理論が、人間の性質自体を変えてしまうからである。

有名な文化人類学者であるクリフォード・ギアツがかつてこんなことを言っていた。

人間は未完成の動物である。

これが意味しているのは、人間の性質というのはその人が住む社会の産物ということだ。

人間の性質というのはあくまで「我々にとって」の人間の性質であり、宇宙理論などのように発見されるものではなく、作られるものである。

つまり、

人々はその社会というものの中で生き、働く組織をデザインすることによって、自分自身の性質をデザインするのだ

だから、どのような人間をデザインしようと思うのかというのを、働くことを通して常に自らに問う必要があるのだと思う。