限りなく院生に近いパリピ@エストニア

エストニアという国で一人ダラダラしてます。

偏差値教育は偉大。

海外の大学に進学して感じていることの一つに偏差値教育の偉大性をあげられる。

めっちゃ偉大でしょ!だって学生の視野狭めまくりだもん。

まぁ私自身は偏差値がかなり低めのド3流一般市民だから、

偏差値教育の影響なんてほとんど受けてないのだが....

なんだろ。「偏差値」って予備校などが定めた日本特有の数値ということをご存知だろうか。

もしかしたら海外にもあるのかな?今のところ聞いたことはないなぁ。

中学、高校くらいになると受験を控えている学生は、

偏差値という言葉にとても敏感になる。

「ここは偏差値が低いからダメ」

「あそこは偏差値が高いからすごい」

みたいな。

そして模試の結果と照らし合わせて、

自分の偏差値にあった学校へ進学をする

学校を偏差値でしか見ていない。

厄介なのは人の価値も偏差値によってある程度決められてしまう点である。

「どこ大学なんですか?」

「〇〇大学です」

「えー!あの〇〇大学なんですか!」

こういうような会話というのはよくあると思うが、

それ以上踏み込むことがあまりないのが現実だ。

このような会話で人を判断していては、表面的な人間と思われておしまいである。

僕が海外に来ていて大きく違いを感じているのは、人の判断基準の違いである。

僕は大学で物理を専攻しているのだが、パーティーなどに参加し、

いろんな人とコミュニケーションをとっていると必ず全員、

「何の勉強しているの?」

と聞いてくる。

「どこの大学なの?」

という質問無しで、専攻について尋ねられることも少なくない。

そこで「物理やってるんだよね」

と答えると、相手の態度がガラッと変わり、

「頭いい...」

という反応をされる。

もちろん物理なんて全然理解できない知能で、他人に頭がいいなんて思われたくないので、

「でも全く理解してないんだ。物理なんて人間がやる学問じゃないよw」

って言うと笑ってくれて、簡単に打ち解けることができる。(このフレーズを多用している。)

つまり、外国人の方が、その人の肩書きだけでなく、その人が何者なのか?

という本質的な部分に注目する傾向があると言える。

日本人はあまり学部学科までは聞かないだろう。

僕もよく後々

「え、理系だったの!?!?」

という反応を受けるwww (確かに理系っぽい頭の良さは兼ね備えてないからな...)

僕は一度オックスフォード大学の特別講義に参加したことがあるが、

オックスフォードってだけで目を輝かせている意識高い勢もたくさんいたが、

「オックスフォード!?頭いいね!で、君は何ができるの?」

というように、それだけで人を判断しない傾向も見られた。

大学の選択基準もレベルだけで判断していないのも特徴だ。

もちろん裕福で頭のいい人達は、それなりに名門校に進学するのが普通だが、

学費や校風、研究設備、教授、国柄、カリキュラム、etc....

そういった全ての情報を考慮して学校を選んでいる。

そのためカリフォルニア工科大といった超一流大学合格者もうちの大学にいたりする。(と言っても一応うちも世界TOP1%周辺大学ではあるが...)

学校の選び方がより本質的であるがゆえに、

学校に入った後も目的意識の強い学生が多く、進路についても深く考えて行動している学生がはるかに海外の方が多いのも、そもそも入学する時点でこれだけ思考回路が違う点で納得できるだろう。

日本の場合、偏差値でしか進路を決めないため、入学したことで満足してしまい、

そのあとほとんど虚無といったような時間を過ごし、周りが就活を始めるのに合わせ、自分も進路について少し考え始める。

だが、そもそも大学入学の目的がないため、

「あれ?俺ってこれからどうすればいいんだろう」

という悩みに直面してしまう。

「偏差値」というのは一つの統計データであり、それもちゃんとした進路選びの目安になる。偏差値が高い大学ほど、質も比例して高いという統計は嘘ではないだろう。

しかし、それだけで判断してしまって良いのだろうか?

偏差値は自尊心を満たすためだけの数値にしかなりえないのではないだろうか。

偏差値教育によって救われている学生も少なくないかもしれないが、

この特異な教育方法によって学生の視野が狭くなってしまっていることも頭の片隅に入れておきたい。

皆、働くためにお金を使っている。

周りがどんどん社会人になり、働いてお金を稼いでる中、

大学卒業と同時に職に就かず、ニート生活を半年送ったのに、たまたま合格した大学院に行き、現在ももちろん働いていないのだが、そこである矛盾に気づいた。

お金を稼ぐために働いているはずが、働くことでお金を消費してしまっている部分は大きいんじゃないかな?

ということである。

大学卒業してニートしていた頃も、現在異国エストニアで大学院生をしている今も、

お金というものをあまり使っていない。(俺の性格だからかもしれないが...)

以前、少ないお金で効率生きるニート的な生活を推奨したのだが、

今回はそれに似ている話をしたい。

働くため」にお金を使っていることを意識したことはあるか?

  • 毎日の通勤にいくらお金がかかっているか
  • できる社会人に見える服や装飾品、メイクのためにどれだけお金がかかっているか
  • 無駄に感じる接待や、飲み会にどれだけお金がかかっているか
  • 子供がいる人は、託児所や保育園、ベビーシッターにどれだけお金がかかっているか。

などなど、考えればたくさん出てくるが、これらは働かなければかからないお金である。

 もちろんその立場にならないと実感できないと思うが、

仕事に関する出費が減れば、生活コストは下がると思う。

こういう話をすると、

「いや老後のために...」

という意見をよく耳にする。妥当な意見だろう。

なかなか難しい問題で、共感を得るのは大変だと思うが、将来が不安なのは実は僕も同じで、気持ちはよく理解できる。だがそれも考え方次第じゃないかな。

老後は何にお金を使うかをよく考えなければならない。

わかりやすく言うと、

何が本当に必要で、何があれば快適な生活を送れるか、そして何を諦めれば良いのか」である。

ここで多くの人が勘違いしていると思うが、

諦めなければいけないものは、そんなに多くない

というだ。

ポイントは2つ、

  1.  優先順位をうまくつける。
  2. そして重要ではないことを気にしない。

例えば、会社を退社し、社会人を引退すれば都内の家賃の高い場所にいる必要はなくなる。そういった働いてる時は必要条件だった事実に縛られなくなるということである。

それらを考慮すると、老後というのはそれほどお金のかからない世界だと予想できる。(一方で金の無い老後は悲惨だぁぁぁぁぁぁ。ほどほどにな)

結論として、僕はまだ働いたことは無いから偉そうに断定することはできないが、

"働くことの本質" を見失わないこと、考えることは、働く人にとって大切なんじゃないかな。

 

効率的な人間になりたいなら、他言語を学ぼう。

僕は自分のことを効率的な人間だとは全く思ってないけど、人に効率的だと指摘されることは少なくない。

まぁ一度に色んなことをするのが好きだから、それを効率的と呼ぶならそうなのかもしれない。(ただしどれも成功していないwwww)

前回 "他言語を学ぶと人に優しくなる" というテーマを綴ったのだが、

今回は言語学習がどのように脳に変化をもたらすのかについて触れてみたいと思う。

まず結論から言ってしまえば、マルチリンガルの人はそうでないモノリンガルの人に比べ、効率の良い人間である傾向が強いという研究データがミュンヘン大学から出ているみたいだ。

考えてみれば、当たり前のことかもしれない。

なぜなら、マルチリンガルの人は会話をするとき、他の言語の使用を脳内で抑制し、一方で適切な言語をピックアップし、それをうまく使っていることになる。

これを科学っぽくカッコよく言ってやれば、

脳内の言語のコントロールシステムをうまく制御できている

ということだ。

加えて、マルチリンガルに育つ子供は、脳の言語中枢に灰白質が多いということが明らかになっているらしい。

少し難しい単語が出てきたが、これはつまり脳内の神経細胞が多いということである。

二つ三つの言語を同時に扱えるということはそれだけ、神経の必要とするタスクであり、それがいろいろなことを同時に行うことのできる、効率的な人間になるということにつながってくるのである。

また、他言語を扱うメリットはそこだけにとどまらず、

脳内の尾状核帯状皮質と呼ばれている部分の活動が高まるのだが、

これは集中力や問題解決力、共感力、衝動性行動の抑制など様々なところに関係してくる。

例えば、将来の進路などの決断が難しい問題に直面し、それでも決めなければいけないケースというのは誰にでもよくあると思うが、マルチリンガルの人間はモノリンガルの人間よりも帯状皮質の活性が低いらしい。つまり、モノリンガルの人間よりも決断の際、余計なエナジーを消費しないということを表している。

言語学習はグローバル化や、外国人とのコミュニケーションツールとしてしか評価していない人が多いが、例えば「外国なんて興味ないし」「グローバル化?どうでもいいわ」というような人にも、勉強すると良いことがあるかもしれない。

まぁあくまで科学的な視点での話。