限りなく院生に近いパリピ@エストニア

エストニアという国で一人ダラダラしてます。

数学を嫌いにする教育方法

若者の理系離れが著しいらしい。

毎年世界中でも多くの物理、数学専攻の学生が、授業についていけなくなり、専攻をITや文系科目に変更していく。

ちょうど僕のいる大学も同じだ。最初は50~60人の物理専攻学生がいたのに、大学院で物理を続けている学生の人数は、現在僕を含む留学生を含め10人くらいである。

転科の理由を聞くと多数は、「忙しすぎる。難しすぎる」と返ってくる。

これは日本でも同じである。

中学、高校レベルの数学で、多くの学生が数学苦手を訴え、離れる。

そしてみんな「私には数学の才能がない」と思い込む。

正直言って、僕も数学は非常に苦手である。

高校や大学の数学の成績なんてひどいものだ。人に見せられたものではない。

だが、嫌々ながら続けたことで気づいたことがある。

「数学は才能ではない」ということだ。

いや正確に言えば、数学の才能を持つ天才は存在する。

僕が言いたいのは、誰でも「数学の才能がない」という最悪な思い込みから解放できるということだ。

まず、なぜ人が数学を嫌いになるのかを考えてみよう。

難しい、理解できない、ついていけない......こんなところだろうか。

では、どこで数学を嫌いになってしまったのだろうか。

足し算、引き算の時点で、拒絶するほど苦手な人は少ないはずだ。

では、関数や方程式が現れ始める、高校あたりだろうか。

受験前に文系理系を決める高校2、3年で、大多数の学生が数学が苦手という理由で、文系進学を目指し始める時期だ。

ここに数学を嫌いになる答えがある。

例えば、歴史や国語、社会といった文系科目は、基本的にどこから入ってもついていくことが可能である。

縄文、弥生時代を勉強していなくても、江戸時代を勉強することは可能である。もちろん、歴史全体を把握する必要はあるが、僕が言いたいのは途中参戦できるということだ。暗記科目と言われるのも納得できるだろう。

一方で、数学や科学はそれができない。

足し算ができないと、掛け算はできない。二次関数ができなければ、三次関数はできない。

だがそれでいて、学校教育というのは残酷である。

なぜなら、理解していようがしていまいが、授業は進んでしまうからだ。

建物に例えてみよう。

1階がまだ未完成のうちに、無理に2階、3階と建築していってしまうと、いずれどこかで耐えられなくなり、建物が崩壊する。

これが、数学を嫌いになるメカニズムである。

理解力や興味というのは個人差があると思う。だから数学をみんな同じペースで、一緒に学校で学ぶことには無理があるのだ。

僕は数学が得意ではない理由に気づいたのは、1階が未完成のまま2階の建築を始めてしまったからである。

だが、大学、大学院で物理を勉強しながら、1階が未完成のことに気づき、崩壊する前に、そのたび下の階に降りて修復を繰り返してきた。

その繰り返しが、こんな数学苦手な僕にも「あれ、数学って結構面白いかも?」と思わせ、現在も続けている理由である。

最後に、数学というのは才能がなくても学ぶことは可能だ。

だが、「数学の才能がない」と学生に思わせてしまう、教育には問題があると思う。

数学という高度な学問をする人間は一部の天才だけで良いかもしれない。

しかし、これだけテクノロジーの発展が注目されている時代に、早い段階で学生の数学への興味すら潰してしまう今のやり方というのは矛盾しているかもしれない。

 

ニートやれるうちはニートでいいと思う。

ニート出来るうちはニートやってていいと思う。

働きたいなら働けばいいし。

むしろ「働きたい!!」って思うことが、効率的な発想を生み出す妨げにだってなる。

「出来る限り働きたくないな」「もっと楽したいな」

という考えが、もっと効率の良い方法を生み出す種になる可能性は大いにある。

だから逆に労働意欲旺盛な社会人や、やたらビジネスをすることに背意欲的な学生というのは、盲目になっている部分もたくさんあると思う。

それに、ニートだから見えてくることってたくさんある。

僕は大学を卒業して半年間は正真正銘のニートだったわけだが、解放感しかなかったな。

社会が自分を必要としてない、どこか自分だけ街ゆく人から外れた存在、透明人間になった気分。

そこから見える社会の姿というのは、ニートにしか見えない。

一生懸命働き、仕事だけしている人というのは、どうしても発想のリソースが仕事からだけになりがちだ。全然ユニークではない。

例えば、マルクス資本論で有名なマルクスは、実はニートである。

職に就かず、親の財産で遊びまくり、友人にお金を借りまくってまで、フラフラしていた男だ。

だが一方で、だからこそ「マルクス資本論」という世界的大ヒットな考えを生み出すことができたと言える。

働いている人にはできない、新しい社会の見方をすることができたということだ。

つまり、人というのは価値のあると言われている経験を、価値がある経験と思ってしまう傾向があるが、何が自分の糧、きっかけになるのかなんて本当は誰にもわからないのだ。

だから、ニートしたいならニートすればいいと思う。

なぜ見知らぬ人と会話をする必要があるのか。

我々は子供の頃からよく「挨拶をしなさい」と言われる。

近所の人や、同じマンションに住んでいる人に挨拶をする習慣があるのは、僕だけではないはずだ。

そしてやがて挨拶だけにとどまらず、会話をすることもあるだろう。

「こんにちは。最近調子どうですか?」「いい天気ですね」

調子はどうですか、なんてフレーズは英語でしか使ったことはないが、こう言った軽い、そして意味のない会話をすることはよくある。

旅をしている時もそうだ。

相部屋になった人と、

「Hello, How are you」

と言った具合だ。

しかし、ここで面白いことは、

誰も別に相手の調子、今日の天気になんて興味ないということである。

興味がないのに会話を始める。

意味がわからない。

そして、お互いに全く踏み込むこともない表面だけの会話を続けて終わる。

例えばエジプトでは他人を無視するのは無礼と思う習慣がある。

赤の他人に一口の水を進める、誰かに道を尋ねたら家で一服していくように誘われる、こういったことは普通のことのようだ。

なぜ人はこんなにも家族や友人以外と繋がりたがるのだろうか。

そこには「束の間の親密」というものがあるのかもしれない。

例えば、通勤電車の中で誰かと話したり、行列がなかなか進まない時に前後の人と会話をする。こういった行為は、自分と同じ状況下や時間を過ごしている他人と束の間のコミュニティーを形成することで、深い共感をしているのである。

そしてその共感をいうものが、それ以上になる可能性も大いにある。

友達や家族よりも赤の他人の方が、自分の本当の気持ちについて正直でオープンになれる可能性がある、ということが研究で証明されているらしい。他人の方が理解してくれるということだ。

この特別な形をした「親密さ」というものが、我々が友達や家族以外に他人との繋がりを必要としている理由の一つなのかもしれない。

一見親しい友人や親しい家族との方が心を通じ、正直になれそうな気がする。

だが、面白いことに実は逆なのだ。その理由は2つあげられる。

まず第一に、一時的な交流の方が正直になれるということだ。

もう2度と出会うことのない人間に正直になることは簡単である。

もう一つは、我々人間は親しい人間に対し、理解をしてくれるだろうという期待をしてしまう傾向がある。「言わなくてもわかるでしょ。」「気持ちを汲み取ってよ」こういう感情のことだ。

一方で見知らぬ人に対しては、0から説明を始める。省略することなく、自分が何者で、相手のことをどう感じているのはを丁寧に説明する。それゆえ、赤の他人の方が理解者になるという現象が起こるのである。

これらの事実を考慮して、私たちがするべき行動は、

「赤の他人へのぶっちゃけ話」

である。

「仕事は?」「恋人は?」「年収は?」「家族構成は?」

全部正直に答える。

一見ただの無防備に見えるが、逆にそれが効果的なのだ。

人は無防備な相手に安心をする。

それが、見知らぬ他人との距離を一気に縮めるきっかけにもなるのである。

そして他人へのオープンな心は、予期せぬ繋がりをも生み出すかもしれない。

それは、表面的な探り探りな会話からでは巡り会うこともない。

最初の話に戻るが、大人というのは子供に見知らぬ人のことを教えるのに多くの時間を使う。そうではなく、私たちが見知らぬ人に自分のことを教えるのに、多くの時間を使ったら何が起こるのだろうか。お互いを疑いの目で見させるような目を捨て、変化を生み出す場まで形成することが可能だと思わないか。